2024/02/13 17:38

こんにちは、京都の琥珀糖屋さんくいしんぼうギャングです😺
琥珀糖は寒天と砂糖で作られる和菓子であり外側はシャリッとした食感で、内側は寒天らしいぷるっとした食感を持つおかしです。琥珀糖だけでなく寒天はゼリーなどにも用いられる身近な食品の材料となっています。そんな寒天はどのようにして生まれたのでしょうか。寒天誕生の秘密に迫ります。
 

【1】寒天とところてん

まずところてんは皆さんご存じでしょうか?酢醤油などをかけて食べる麺のようなゼリーのようなつるつるとした食感が特徴的な食べ物です。このところてんは唐(現在の中国)から遣唐使を通じて日本に精進料理とともに伝来しました。今現在も食卓に並ぶところてんは1200年も前から日本では食べられていたそうです。ところてんは古くから親しまれてきた食材なのですね。寒天はこのところてんに起こったアクシデントがきっかけで作られるようになりました。そのアクシデントとは一体なんなのでしょうか?

【2】寒天誕生

寒天は京都伏見にある旅館美濃屋で江戸時代初期の1658年に誕生しました。この旅館の主人であった美濃屋太郎(みのやたろう)が冬にところてんを外に放置してしまったことで、ところてんが冬の夜の寒空にさらされて凍ってしまい、日中に凍っていたところてんが溶け乾き干物のようになったのです。この干物が寒天です。美濃屋太郎はこの干物をもう一度煮て固めればもう一度ところてんに戻るのではと試してみたところ、元のところてんよりも透明で臭みもない、よりおいしいものができました。このところてんの干物を煮溶かして固めたものをところてんの珍味と言って提供するようになりました。これが隠元禅師という僧により、寒空を表し、「寒晒心太(かんざらしところてん」を縮めた物である「寒天」という名がつけられ寒天が誕生したと言われています。(命名には諸説あります。)このようにして京都伏見で寒天が生まれました。店の主人の好奇心から寒天が誕生するとはなんとも数奇な話ですね。2020年には京都伏見で寒天が誕生したことを記念して伏見に寒天発祥の地として記念碑が立てられました。

【3】粉寒天への進化

日本で生まれた干物状の寒天は日本の特産品となりました。寒天は常温で溶け出すことはなく実験用の培地として適切であったことから、培地としてゼラチンではなく寒天が採用されるようになりました。初めて寒天培地を使用した実験を行ったのはコッホで、1882年当時流行していた結核の要因である結核菌を発見しました。このような業績をもとに寒天は実験用の培地として世界規模の医療の進歩に貢献しました。このようにゼリーなどのお菓子以外にも重要な使用用途ができた寒天は日本の特産品となり、海外への重要な輸出品となりました。しかし、第二次世界大戦が勃発すると日本は外国への寒天の輸出を規制するようになり、海外の寒天の買い手は日本から買うことができなくなってしまいました。そこで海外での寒天の製造が始まり、それまでの干物状の寒天ではなく粉寒天が開発されたのです。

※「豆知識」ところてんはなぜ心太と書くの?

ところてんは寒天の前段階といえますから、寒天同様テングサを煮溶かして、固めた物を指します。古代にはテングサの溶かして固めるとゼリー状になる性質から凝海葉(こるもは)=凝る(こる)+海(も)+葉(は)と呼ばれていたようです。その後「凝る」から心に変化し、『こころも→こころぶと(心太)→こころてい→こころてん→ところてん』と変化していったようです。※諸説あります

まとめ

寒天は凍っていたところてんを解凍してうまれたものだった。


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